分析

驚くなかれ。最近文章が書けない。つか、あらゆる作家に影響を受けすぎて自分の書き方を忘れているんだな。最近読んだのはオスカーワイルドだったり大江健三郎だったり庄司薫だったりするのだが、本当に文章というのはつかみどころのない面白いもんだなと思う。同時に、ただ単に受け身で物語を味わうことができなくなったとも思う。こういう感性的な職業って、どんな時代であれ、現状への不満や未来への希望を孕んでいる。つまり、文化そのものなのだ。ドリアングレイで描いかれた人間の内面の恐ろしさ、黒人兵隊に怯えつつも興味を抱く日本人、閉塞された空間、なくなった東大受験と学生運動。そういうのはすべて時代を反映させていて、言うなればその時代じゃなきゃ書けなかったものたちだ。そしてその時代に、素晴らしい書き手によって産み落とされ、評価され、今まで息吹き続けている。それって改めて考えるとすごいことだ。

私だって小学、中学、高校と書いてきて、文章は変わり続けている。それは上手くなったから、でもあるだろうが、一番の原因は時代の変化なんじゃないだろうか。私の周りを回る環境、文化、世界の変化が、びしびしと感性に影響を与えていく。だって書くってことは何か伝えたいってわけじゃん。私の伝えたいことってなんだろうと思った時に、自分の心の中で考えてること、つまり外界に対する内界がそれなんじゃないかと思った。ならば、心のうちにある言葉たちは、周りを取り囲む世界がなければ生まれてこない。結局、私の文章は今の時代に順応していくわけだ。

たくさん、文章を書ける人がいる中で、どうしてふるい落とされ、ごく僅かな人が残って小説家や作家になったか考えてみる。それはきっと、その人の文章がうまかったからとか面白かったからだけじゃない。その人とその時代が合致していたのだ。その文化の中で声を上げるべき人だったのだ。そう思うと、なんかなあと思う。生まれてくる時代は選べない。環境も何もかも、人間は平等なんかで始まらない。そうなんだよな、だから小林は作家になることを諦めたんだよな。(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』の小林が結構好き)